3年前のことですが、『 とよなか歴史・文化財 マップ (編集・発行豊中市教育委員会) 』に、 庄内遺跡説明板と 黄金の森が記されていたので、庄内幸町に出かけた時に見聞きしたことをかいてみます。

庄内遺跡の説明板がある庄内小学校に行ったが、外からは見ることが出来ず、校長先生に入れてもらった。校内展示している土器(レプリカ)を見たり、話を聞かせて頂いた。帰りに、『 豊中市立庄内小学校 100年史 竜門 』の “ 庄内界わいの史跡を歩く” のコピーを戴いた。

庄内小学校 校内展示品 (甕は船橋遺跡・大阪府柏原市 出土)

庄内小学校 校内展示品 (小さな壺は庄内遺跡 出土)

昭和の初め頃、室戸台風で講堂・校舎か゛倒壊。現在地(庄内小学校)に建設のおりに遺跡を発見。

注目は二点。その1、この遺跡が「・・弥生時代終末期から古墳時代後期前半までというかなり存続期間の長い遺跡・・」であること。

その2、底が尖った土器(甕)で、庄内式土器の名前(発見地)が付いていること。

遺跡・庄内式土器は指標遺跡・指標的土器様式として考古学史に名を残す位置づけを与えられている、との事。共に今後の調査に期待されているようです。

 (※ 出土した、弥生式土器や土師器などは東京国立博物館で保管)

 (※ 庄内式土器との名前だが、八尾・東大阪地域(河内)から持ち込また)  

出典: 『 豊中市立庄内小学校 100年史竜門 』  / 『 新修豊中市史 第4巻 考古 』 平成17年(2005) 9月30日/

豊中市立 庄内小学校 (庄内幸町4丁目) (2019年6月6日撮影)

先日あらためて庄内小学校に出かけて、校門の写真を撮影してきました。そして、以前コピーを戴いた『100年史竜門』を読んでみると、今年で146年の歴史を重ねていることが分かりました。同書の沿革史から学校名の変遷と雑学を紹介します。

① 明治6年(1873年)9月、名は、 第三大学区大阪府管内第四中学区第十大区三小区第壱番小学校として 創立

  雑学:この4年後、明治10年(1877)に西南戦争が起こっています

② 明治11(1878)年4月、 大阪府摂津国豊島郡村立竜門尋常小学校と改称

③ 昭和30(1955)年1月、豊中市立庄内小学校と改称

  雑学:この年、NHKでカラーテレビの実験放送がおこなわれました

黄金の森公園は、庄内幸町3丁目7にある。

黄金の森に関しては、よく分かっていないようです。明確なことは、塚の上にあった稲荷神社が、明治39(1906)年8月の勅令により庄内神社に合祀 (大正元(1912)年10月鎮座) されたことだけなようです。

黄金の森について、出典:①『 豊中市立庄内小学校 100年史 竜門  』/ ②『 【郷土史資料】 豊能群庄内村誌  豊中市立教育研究所  』/ ③『 豊中市史資料集4 「村明細帳(下)」の 摂州豊嶋郡庄本村諸色附込帳・明和三丙戌年(1766)  』/ から、森・遺跡・土器に関する記述を抜き書きして紹介することでお茶を濁したいと思います。

森について

出典①では、「黄金の森」と呼ばれる古墳が、庄内幸町3丁目、庄内栄町3丁目に大正(1912~1926)の中ごろまであった。

②では、大字庄本新家(一名黄金ノ森。保食神社)同部落東北隅ニ丘陵アリ、其ノ嶺ニ祭祀鎮守神・・庄内神社ニ合祀・・。此地土饅頭ニシテ、陵墓ノ形ヲ具ヘ・・

③では、除地(年貢の対象外)として、「一 森 壱ヶ所 四間半四方  但平均除地」「右森之義者(は)」椋橋山与(と)申候得共由緒無御座候」

遺跡について

①では、当庄内地方に関係があると思われる氏族として椋橋部連(クラハシベノムラジ)・島首(シマノオビト)・島昆登(シマノヒト) と書き。

②では、椋橋部連居住せし地なるを以て、同種族に関係ある遺跡ならんと思惟す。等と書いている。

土器について

①では、古墳を発掘すると、須恵器や土器がでてきたそうだと。

②では、・・土中ヨリ本朝上古ノ土器斎瓶(祭器)ノ破片数多出セリ。(鑑定ニヨレバ考古学者凡千四五百年以前ノ物、又波形状ノ朝鮮土器破片ヲモ出ス)本郡史跡調査会員出張アリ、・・と記述

大きな時の流れを感じた一日だったことを思い出しました。