10月28日(日曜日)に開催された「とよ散歩 ウィキペディアタウン in 豊中」の報告です。

とよ散歩 第2回目は、豊中市の南部、服部(はっとり)穂積地区とその周辺の歴史を歩きました。

朝9時前、豊島体育館を南東側交差点から撮影

写真(上)は今回の拠点となった豊島(てしま)体育館です。阪急宝塚線服部天神駅から西方向に徒歩約10分強の位置にあります。このあたりは昔は広池がありました。今回の対象である、「穂積(ほづみ)囲堤(かこいづつみ)」の北西、その外側にあたります。

会場は、1階会議室。

スタッフは朝9時に集合。9時30分頃から受付開始、10時から予定どおり開催できました。

 

まず、昨年と同じく、事前学習です。主催者からひととおり本日の内容・スケジュール、進行上の注意事項等の説明のあと、

NPO法人とよなか・歴史と文化の会の瀧さんから、「穂積村囲堤跡」のご説明(写真下)をいただきました。

囲堤跡の説明

 

続いて、オープンデータ京都実践会の青木さんから「ウィキペディアタウン」について。 同 Miya.mさんから「ウィキペディア」についてご説明(写真下・右)いただきました。本日は、午前中に「まち歩き」をし、午後からウィキペディアを編集します。編集において、いろいろな注意点を伺いました。

ウィキペディアの説明

 

ほぼスケジュールどおり。11時前から、いよいよ「まち歩き」出発です。参加者10名とスタッフ13名の一行です。

午前11時前、まち歩きへ出発

本日のコースは、

豊島体育館 > (旧)穂積村囲堤跡 > 穂積遺跡看板 > 服部天神宮 > 穂積本郷 > 徳用寺 > 忍法寺 > 豊島体育館

なのですが、地図的には、穂積村囲堤跡の北西位置から、堤の北側を服部天神駅へ東進し、阪急電鉄線を超えて天神宮へ。その後、能勢街道を南へ進み、服部南町で西へ折れ、阪急電鉄線を再度渡り、さらに西進すると穂積本郷といわれる旧穂積村の中心部へ至ります。古い道を辿って各寺でお話を伺い、本郷を抜け、道路を北へ歩くと、豊島体育館の南側角へ到達します。(地図でご確認ください。)

まち歩きのガイドは、NPO法人とよなか・歴史と文化の会の山田さんと瀧さん。昨年と同様に引率して、要所でわかりやすくお話をして下さいました。

 

旧・堤を北側から南(内側)へ撮影

北側の堤跡は今はアスファルトで舗装された道となっていますが、それでもかなりな段差は残っています。お年寄りは危(あや)うそうに降りて行かれます。ただ、昔をご存知の方のお話では、現在よりももっと細くて段差はあったとのこと。いったい、どの程度の高さがあったのか、北摂アーカイブスのメンバーでも今年春にまち歩きをしましたが、まだよくわかっていません。

(ご協力いただける方、どうぞ図書館へ情報をご提供ください。)

 

穂積遺跡は複合遺跡。連結鏃(やじり)のご説明を聞く参加者とスタッフ。

「穂積遺跡看板」あたり。

今回のテーマの1つである、穂積遺跡のご説明を皆で伺っている様子です。手に持たれている写真は、弥生時代の地層から出土した3セットの連結鏃(やじり)。この近くのマンション建設時に敷地から発掘されました。竪穴式住居のそばの溝から見つかったそうで、やじりが大量に製造されていたことを示唆する貴重な資料とのことです。

遡って、貝の群棲化石や縄文土器片の出土もあります。穂積遺跡は縄文時代から中世・近世に渡る複合遺跡とのこと。詳しくは遺跡の調査資料をご覧ください。

 

服部天神宮でご説明を伺ったあと、ひとやすみ。

線路を超えて、「服部天神宮」です。NPO法人とよなか・歴史と文化の会の山田さんから、鬼貫(おにつら)などの句碑があることや、豊中三大文化人の碑(書家・西田王堂、画家・矢野橋村、歌人・安田青風)が並んでいるといったご説明をいただきました。[このあたり伝聞]

ここで小休止。

また、以下は、いただいた資料から。[これもメンバーのまとめ]

服部天神宮は由緒によると、
服部の地名は、その昔、朝鮮から機織りの技術を吾が国に伝えた人々(秦氏)が住んだこと からでないか。
続けて、第十九代允恭天皇の御代(西暦412年)に、織部司となった「服部連」の本拠地が服部であると。
その秦氏が、医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していたので、当神社はこの服部の地に古くからおまつりされていたものと思われる、と書かれています。
現在、御祭神は少彦名命・菅原道真公。境内に「豊中えびす神社」「初酉稲荷神社」が祭られています。

 

服部南町、能勢街道からこの角を右(西)へ折れる。瀧さんから説明を伺う参加者たち。

服部西町を西へ進む一行。この道も昔からある道です。

町の中心は穂積本郷(ほんごう)と地元では言われているとのこと。

徳用寺さんへ到着したのは、お昼前。

 

元禄10(1697)年に建立した前代(2代目)のお寺の一部。約320年前とか。

先代(第19代)のご住職にお話を伺いました。

徳用寺は真宗大谷派(東本願寺)のお寺。室町時代の延徳元年(1489年)にお寺ができたときは、5間四方の藁葺きであったとか。お寺はその当時は日常生活の相談所のような役割もしていました。2代目のお寺は元禄10年(1697年)に建立。現在のお寺(の建物)は3代目。

お寺には、現在のお寺に立て直した際、以前の建物一部が保存されています。門を入って左側には、同じく鬼瓦もありました。

昔はお寺の外は、南は三国のガスタンクまで田が続き、見渡せた。その間に村が点在していた。静かな村で、村人は田を引く牛を飼っていた。ただ、戦時中は牛を盗まれることが心配で、家屋の中で飼っていたそうです。牛を飼っていたその横はお風呂であることが多かったとか。

 

忍法寺の門をくぐって、本堂へ向かう

徳用寺さんを後にして、昔からある細い道を進みます。少しの距離で忍法寺さんへつきます。こちらも500年近い歴史あるお寺です。

宗派は西本願寺系です。現15代目のご住職にお話を伺いました。お寺の歴史や詳細は、当日午後に書かれたウィキペディアでご覧ください。

ここでは、「力石(ちからいし)」について伺ったお話から引用しておきます。旧穂積村は土塁で囲まれていた、そこで使われていた石と伝えられています。力石という銘の美味しいお饅頭をご馳走になりました。服部地区の和菓子店で作っていただいているとのこと。

秋のひとときを味わい、忍法寺を後にして、体育館へ戻りました。

小さな熟し柿

力石とお饅頭(大きさ比較?)

 

お昼休みの後は、いよいよウィキペディアの編集です。

4つのグループに別れて編集の開始

今回の会場、壁面に沿って設置された黒板には、旧い関連地図が貼られ、周囲の棚やテーブルには図書資料(書籍など)、北摂アーカイブスで作成した関連パネルが並べてあります。

図書館の資料室が移動したようです。今回は、岡町図書館ではないので、事前の準備が大変だったと思います。これも、いつもながら、司書さんの支えあっての順調さです。

 

成果発表

机の並びごとに、4つのグループ A)穂積村囲堤、B)穂積遺跡、C)服部天神宮、D)忍法寺、に別れて編集を行いました。初心者の「私」もアカウントを作って編集を行いました。ウィキペディアの編集にはいくつか基本ルールがありますが、手厚いサポートにより短時間で発表できるまでになるのは、参加2回目ながら感心します。

服部天神宮は既にページがありました。加筆は気を使います。ちなみに、徳用寺 さんのページもあります。

(ページはこの後も編集が続けられており、すでに当日のものではありません。成長し続ける百科辞典ゆえですね。)

 

 

***** 参加者もスタッフも。 みなさん、お疲れ様でした! *****

2018年とよ散歩_記念撮影

 

*************** さいごに ***************

体育館から西を臨む。(水路があります。)

 

地域の昔のお話をいただいた徳用寺、忍法寺のご住職と皆様、服部天神宮の皆さまにお礼申し上げます。

NPO法人とよなか・歴史と文化の会、オープンデータ京都実践会、諸国・浪漫の皆様には、今回もご協力いただきました。ありがとうございました。

そして、すべての参加者の皆さん。今回も遠くからご参加下さった方もおられましたが、一緒にまち歩きができました。天候にも恵まれ、充実した一日でした。