水は、農作にかけがえのないものであり、それがゆえに時には人々の争いのもとにもなり、大いなる自然の脅威でもありました。北摂アーカイブスの中でも、豪雨で決壊した箕輪小橋付近の写真を紹介しています。

(詳しくはこちらをご覧ください「昭和42年千里川の決壊(箕輪小橋付近)」)

いかにして水害から生命と農地を守るか。「囲堤」の他にも、人々は多くの知恵を絞ってきました。昭和40年代~50年代にかけて、千里川上流部の野畑地区と、下流部の勝部地区では、蛇行していた川筋を直線に付け替える大規模な工事、いわゆる「ショートカット工事」が相次いで行われました。

「穂積村囲堤」と並行して、私たちは、千里川ショートカット工事前後の勝部付近の写真の撮影場所が気になっていました。入手時に「1970年代」としか分かっていない数枚の写真は、川のそばの風景ということもあって、周囲には特徴的な建物などが少なく、場所を特定する手掛かりがほとんどありません。参考になりそうな情報を求めて、インターネット上をあれこれ検索していると、偶然、とても興味深いサイトを見つけました。

ふるさとの風景・豊中市勝部」http://1st.geocities.jp/toyonakatsube/index.htmです。サイトの中の「写真集・千里川の風景」には、千里川と人々の歴史が垣間見られます。

このサイトを運営されている辻村佐兵衛さんにお願いして、6月の私たちの定例会にお越しいただきました。

辻村さんご自身が作成された昔の勝部付近の詳しい絵地図もご持参くださいました。

メンバーそれぞれがお尋ねしたいことがたくさんあって、それにひとつひとつ丁寧にお応えくださる辻村さんのお話に、ついつい引き込まれてしまい、まとまった記録が出来なかったのは残念ですが、伺ったお話のいくつかを記載しておきます。

千里川と伊丹街道との交差点から下流の千里川の様子は一様ではなく、離れて存在していた、勝部と走井の集落近く以外の (旧)勝部橋〜(旧)神明橋間や、「梨高橋」から下流の(現)千里川土手あたりは、草が生い茂り、子ども一人では入り込めないような雰囲気のエリアであったこと。「神明橋」の名前の由来は、昔あった「神明社」という神社であるらしいこと。千里川の底を通る水路の話。(今も残る「九名井」又は「原田井」と呼ばれる用水路)

昭和24年生まれの辻村さんが子どもの頃には、勝部の名産だったイチゴを駐留中の米軍家族が日曜日によく買いに来ていて、阪急電車の中でも米軍人をよく見かけた、というお話も印象に残りました。

辻村さんのご自宅には「伊勢講」(外部サイト「コトバンク」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の解説へ)を記録した「伊勢講勘定帳」が今も残っているそうです。サイトの中の「時の流れの中で…勝部の中の歴史」に詳しく記されています。辻村さんは、原田神社の玉垣の写真を一つ一つ撮影して、そこに刻まれている人名と、文書に記されている人名を照合する作業もしてらっしゃるそうです。

残念ながら、私たちの手元にある勝部付近の写真の場所の特定は出来ませんでしたが、昔の豊中の興味深いお話をたくさん伺うことが出来ました。サイトで紹介されている貴重なお写真も、デジタル化のためお借りしました。いずれ、北摂アーカイブスや、写真展などでみなさまにもご紹介させていただきます。

辻村さん、ありがとうございました。